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仕事・キャリアの選択において「ワクワク」が大切な理由

「今後の自分の人生を変える分岐点だ」と思える人との出会い・出来事に遭遇したことはありますか?

自分の人生を大きく変えてしまうような出来事に遭遇し、いつもと少し違った決断をする時、実は「その時どういう気持ちになるのか?」が重要だったりします。

決断をするときに、合理的に判断するよりも、「やってみたい!」とワクワクする気持ち、直感がピンと働くときに上手くいくことも多いです。

それは一体なぜでしょうか?

経験は「常に足りない」

そもそも、決断する、判断するというのは、その人の過去の経験則によってなされます。人間は、今までしてきた経験を元に現状を認識・理解するしかないからです。

生活や仕事で色んな経験を重ねてきた人も沢山いるとは思いますが、それでも自分のしてきた経験というのは「常に、誰でも」不足しています。

なぜなら、「全く同じ状況で、全く同じことを同じように実行する」というのは不可能だからです。

 

例えば、今年、何か商品を販売する会社を起こすとします。

全く同じメンバーで全く同じ事業内容で始めても、始めるタイミングが今年なのか来年なのかでその事業が軌道に乗る時期も違ってくるでしょうし、そのときのメンバーの状態(子供が生まれたばかりとか)によって事業に割ける時間も変わったりします。

これは別に起業の話でなくても、何でもそうで、万事は一期一会。刻一刻と状況は微妙に変化しています。

つまり、世の中に成功のためのテンプレートというのは絶対に存在しません。いくら成功者に手取り足取り教えてもらっても成功するとは限らないということです。

 

刻一刻と変化し続ける社会や自分、周りの環境の中で、「その時にベストであろう」という選択肢を選び続けるしかなく、その状況もその時のみのものです。

「正解がない状態で、できるだけ多くの隠れた選択肢を見つけ、どう決断を下していくか」それこそが最も難しく、重要なことなのです。

決断をするときの心境

なんでも合理的に考えてしまう癖がある人は、「分かっている範囲」でしか物事を選べません。

筆者はこの前、様々な年代の人が集まるイベントに参加したのですが、40歳以上の方は「若い人の、一見すると無茶苦茶な発想がすごいと思う」と言っていました。(もちろん褒め言葉です。)

年を重ねる毎に、人は嫌でも経験値が増えていくので、良い意味でも悪い意味でも、色んな経験をして「学習してしまって」います。

「こうやらないと上手く行かない」、「こうしないと効率が悪い」という、いってみれば学習による負の先入観が先にあり、それが純粋な直感を信じたり、感じるままに動くことを阻害してしまいす。

結果、小さくまとまってしまいがちというか、精一杯創造しても、どうしても既視感のあるものを作り出してしまいがちです。

しかし、若い人、10代や20歳代前半の人はそれがまだない(人が多い)。そして、今の世の中は成熟社会と言われ、「既視感のないもの」に社会的インパクトがある場合が多いのです。

私も、理学療法士をしていて、エビデンスや科学的見解の元に医療を行う(EBMevidence-based medhicine)ことを学校でも習ってきましたが、実際の臨床では直感はときにそれを凌駕した正解に導くことがあることを実感しています。

直感がなぜ大切か?

「直感=意識+無意識の判断」であると言っても良いでしょう。

”直感に従う”というと、なにかオカルトめいたニュアンスを感じる方も多いかもしれません。しかし、私は決してオカルトの類の話をしているのではありません。

最新の人工知能の研究での知見をヒントにこの記事を書いています。

以下に述べる、受動意識仮説という説を提唱しているのは、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科の前野隆司教授

 

受動意識仮説の内容を要約してお伝えすると、人工知能や人間を模したロボットを作ろうと思ったときに、意識という「司令塔」を作ってしまうと、全体の制御が上手くできないそうです。

しかし、まず、プログラミングを主体とした「無意識」(光が当たる方向に自動的に顔を向けるなど)を作り、そのプログラミングを「監視するモニター」として「意識」を作ると制御がしやすくなる、というのです。

つまり、実は無意識が主体であり、意識はそれを補完する役割(稼働している無意識部分で今認識が必要な部分にフォーカスするスポットライトのようなもの)を与えると効率的に作用するのだそうです。

これは心理学者のフロイトの提唱する無意識と符合するものがあります。

「我思う故に我あり」という意識=自我である、というのはもはや古い認識なのかも知れませんね。

受動意識仮説

意識は受動的なものであるとする仮説「受動意識仮説」

少し伝わりにくいと思うので、我々の生活の中での例を1つ挙げてみます。

あなたが居酒屋で誰かと話をしているとします。

普通は話の内容に意識を向けていますが、その時に座っている椅子の柔らかさ、雑音、店に漂う匂いから照明の当たり具合、漠然と漂う雰囲気、どんな人が周りに座っているか、自分が今どんな姿勢で話を聞いているか、というのを全て実は脳は認識しています。

この部分こそが、意識ではなく、無意識で認識しているフィールドです。

「何となく感じが良い店だからまた違う友達と来よう!」と思うことはありませんか?

この感覚はこういった無意識の認識が大きく影響を与えています。

普段私たちが生活していて、意識できること、つまりは頭で認識できることというのは、ほんの数%であり、それ以外の膨大な情報が無意識にメモリーとして蓄積されます。(意識は約3%で約97%が無意識であるとされています。)

人生の岐路に立つ時、この「無意識の記憶」がワクワクする気持ちを想起させ、正しい判断に導くことがあります。

よって、頭で考えても判断できない複雑な判断をする場合は、できるだけ楽しい、ワクワクすることを選ぶことも1つ有効な方法となるのかも知れません。

「利他的行動」が人を幸せに導く理由

暗闇や蛇を本能的に怖いと思うのは、無意識によるもの、つまりDNAに記憶された本能だとされています。これは後天的に学習されたものでもありませんし、意識的に怖いと思うようなものでもありませんよね。

また、工学博士の武田邦彦教授(ホンマでっかTVに出演されているあの先生です。)は、「命」とは個体にあるのではなく「DNAに刻まれた記憶のこと」だとも言っています。

個体はただの入れ物であり、それを子孫に残していくために生物は存在しているのだそうです。

つまり、「種の保存」こそが人間の根源的な本能であり、生きる意味だということになります。だから、人間は、心の奥底では実は、「何より自分が大切だ」とは思っていないのだそうです。

そう考えると、人が利他的な行動を自然に取ることがあることにも頷けます。

自分の身体(個体)よりもより良い記憶(DNAの情報)を後世に残すことができるから、自分を犠牲にしてでも利他的な行動を取ることに本能的な喜びを感じるのかも知れませんね。

筆者にも可愛い2人の子供がいますが、子供達が喜んでいる顔を見ていると、それだけですごく満たされた気持ちになるものです。

子供を産み、育てる喜びや幸せというのは、まさしくここにその本質があるのだろなぁと毎日のように実感します。

個体として欲求充足から社会的な欲求充足へ

種の保存の欲求である利他的な行動は、まず個体としての生存が保証されている環境でなければ発現されません。

自身が食べるものがなく、今にも餓死してしまうかもしれないという状況では、種の保存の欲求よりも、個体としての生存欲求が勝るでしょう。

今の日本は非常に裕福で恵まれています。

餓死することはほとんどありませんし、100円均一のショップで生活必需用品はほとんど揃ったりします。これは私の父、祖父などの先人が苦労して衣食住を得やすい環境を作って下さった恩恵でしょう。感謝してもしきれませんよね。

個体としての生理的な欲求(食べたい、寝たい、繁殖したい)が満たされると、次に人が求めるのは、利他的な種の保存の欲求です。

つまり、個体だけで完結せず、より社会的な視点を持つようになります。

「人の役に立ちたい」、「せっかくの人生なら、精一杯社会貢献したい」そういった想いを持つ人が、私の周りでも、特に若い世代を中心にすごく増えています。

日本全体の欲求が次のステージに進化している過渡期にあるのではないかと思います。

 

実際、世界でもそのような動きが活発になっているようです。

次回は、利他的で社会的なビジネス、「ソーシャルビジネス」について私見を述べたいと思います。

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生き方専門家 西野 英行
ポジティブ心理学実践インストラクター/理学療法士/ブロガー。本業をしながら、個人で多方面に活動する「セミフリーランス」という新しい働き方を実践中。著書「100歳まで元気でいるための歩き方&杖の使い方」

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